いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

起きると

起きるとカツオのお寿司が枕元に二貫乾いていた。大好きなカツオのお寿司を食べ忘れて寝てしまうほど疲れてたと言うのか。「何もしない」が必要かもしれない。ここのところいつも人のために何かしていた。

 

そのせいではないと思うけど疲れたようだ。だいたい物語を書いてしまうときは、自分がいっぱいになって自分のことを書けなくなった時だ。わたしは今これまで住んだ中で一番快適な家に住んでいる。短編を書くのにぴったりだ。ここに寝転がると電線が3本見える。でも今気づいた。その下にまた1本、それから上にも4本あった。この3ヶ月というもの、この事実に気づかないでいたようだ。美味しいお茶も飲まず、安い茶で済ませていた。高いものを買って贅沢したら、世界の罠にはまってしまう気がしている。前より贅沢できるだろう、ならば働いてよかっただろうと世界に話しかけられているような気がした。でもどんなに美味しいもの高いものを食べてもどうせ死ぬ。どんなに物を持ってもどうせ死ぬ。どんなに家電が増えてもどうせ死ぬ。それならどんな奴にも「しめしめ」などと思われたくない。本当には望んでいないものを望んでいると思い込むことで、世界の罠にはまりたくない。辛いんだとても。みんなが嬉しく思うことをわたしは疑っていたい。みんなが嬉しく思うことをわたしは意に介さずにいたい。苦しみとしか思えないことの中に喜びを見出したい。世界共通の感情から逃れたい。マーケティングの対象となる人間になりたくない。大きな組織によってものを買わされたくない。そのせいで金のためにまた明日も働きたくない。生活が豊かになるということはものを増やすことじゃなく、貯金を増やすことではないか。それがわたしに世界の罠に踊らされなかったという実績を見せてくれるし、ここを離れる時、金のために数ヶ月待つことをしなくてよくなるのだから。

 

住めば離れたくなくなるなどという世界の罠にはまりたくない。いつでもどこかへ行きたい。世界と癒着したくない。興味のない人間を深く知りたくないんだよもう、そんなことしてもお話を書くしか無くなる。

 

さいきん、どうしてもう少し頑張って教職を取れなかったかなと思うことがあった。でも違う。それでは易きに流されていただろう。いつでも世界と癒着する道を避けて来たのだ。

 

結局自分は父と同じことをしている気がする。同じようなことを心地よく思えるように遺伝子が設計されているのだろうか。同じことをしたくないのに。