いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

あの機械は人を殺した

 あの機械は人を殺した。なぜ殺したのか、誰かが考え続けている。でも誰がどのように考え続けているのであろうか。その人は何を勉強した人か。その人は何の責任を負うのか。その人は何を思う。誰がその人なのか。その人はどこにいるのか。

 

 わたしは新卒社員としてやってきた。わたしは何を勉強し続けるのか。誰のために。わたしは何に対して責任を持つのか。自分自身は何者なのか。わたしが作業着を着る日が来た。新しい人生がこの工場で開幕。目の前にあることを全力で。

 

指導してくれた派遣社員の人の名前をノートに書き込んだ。

 

あの機械は人を殺した。工場というのは、人間には必ず間違えることがあるという前提を理解して、それでも人に作業をさせる場所である。その工場で作っているものは明日この世から消えたとしても代替品がある。そういうものを作る生活の中で、あの機械が人を殺した。

 

ある人が迎えることのない日をわたしは迎える。この世に代替品はある。代替品がある製品を作り、生活を豊かにする。けれどもその途上で死ぬこともある。心が囚われている。

 

世の中でいう「良い仕事」というのは、ヒューマンエラーや事故で人が死なぬ職業のことだったのだとしみじみ実感した。それは年収が高い低いとは関係なく、指を失わず、血が流れない職業だったのだと。わたしは何か違和感のあるものにぶち当たってしまった。

 

この機械が人を殺したようには見えない。わたしは何度もその機械の構造を思い出した。もちろん当時からは加工されたのであろうが、間違いなくこれが人を殺した機械なのだろう。

 

工場での成果というのは基本的には工場で働く人個人の成果としては見られない。全ては没個性化された労働力全体が作り出した今日の生産量。今日の廃棄品。入れ替わりは激しく、プロフィールは頻繁に張り替えられ、忘れ続ける。その中に正社員になるものとならないものが居て、わたし達新卒採用者の明日でさえ、どんな基準でふりわけられているのかは明らかでない。この人たちは来年ここにいるだろうか。