いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

焼き鳥と聖地

 検索してたら、好きな二軒の焼き鳥屋が漢字は違うけど同じ名前だったことに気づいた。

retty.me

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 なんか食べログのリンクを貼ろうとすると、アクセスを制限されていますと出て、上のように写真が入ったリンクを貼れない。一応リンクは貼れるようだけど、クリックしようという魅力あるリンク形式ではない。食べログってかなりレビューを制限してるし、よくないレビュー書いたら消されるしほんとやりにくいサービスだなと思っている。草津の焼き鳥屋の悪いレビューを書いたら消された経験がある。

 それに比べたら中国の百度地图とか大众点评とかのレビュー見れるサイトはすごく悪い評価を書かれても消さないで残していて信用できる。「牛肉麺がすごくまずい。麺が最初からふやけている。給仕の態度悪い。」みたいなレビューも普通に残っているし。個人的印象としてはレビューサイトの忠実性は中国の方があると思う。そして割とみんなレビューを見て決めている。多分。

 悪い評価を抹殺するような評価サイトに評価サイトの価値ないと思う。それはただの持ち上げ囃し立てサイトじゃん。

 レビューサイトに掲載されている以上、血迷った人が八つ当たり的に悪い評価を書くこともありうるわけで、それは見る人もわかって見ていると思う。しかしだからと言ってその評価を消去していいというわけではないでしょう。むしろみんながわかっていることだからこそ残しておいても大丈夫って感じかと・・・。良いものは良い、悪いものは悪いという評価ができない評価サイトなど存在する意味・・・。意味なくはないけど、かえってよくない気もする。ただ店の側から見たら食べログの評価には返信できないしくみだから削除するしかやりにくいというのは不自由だろうなとも思う。

 

 さて話は変わるが、くらげ(id:fimakuu)さんとゆた(id:SHADE)さんと焼き鳥に行き、そのあとケーキを食べました。ご馳走になりました。東京にいるうちにお会いするのはこれで最後だろうという感じ。今度会うのは帰省した時か、引越し先でもしかしたらお会いすることがいつかあるかもなと思っています。またご飯に行きたいです。

 

 くらげ(id:fimakuu)さんのブログ

fimakuu.hatenablog.com

ゆた(id:SHADE)さんのブログ

shade.hatenablog.com

 

 ブログについて話したりできてよかった。

 私のブログは書きたいと思ったことをメモしておいて、だいたい夜にそれを肉付けして書いているのでどんどん長くなるのだが、話題間につながりがないのに無理やり一つの文章にしてしまっている。目次をつけようかとも思うが面倒なのと、気になるところだけ目次をクリックして読んでもらうのもなんかさみしいという気持ちで今のようなブログになっています。

 

 私は友達があまり多くないんで、よく知っている人の話を引き合いに出そうとするとかなりの割合で家族の話を持ってきてしまって、それをちょっと子供染みてる気がして恥ずかしいと思っているのだけど、くらげ(id:fimakuu)さんとゆた(id:SHADE)さんと話しているときはあまりそういうことを気にしないで話せた。私としては、特に家族と一緒に住む時間が長くなっている人にとっては家族が一番近くで観察できる対象だし、一緒に何かをすることも多いので、会話の中にも多く登場して自然だと思っている。でも同年代の人の間で話してるとちょっと恥ずかしい気がする。家族のことって、だいたいみんな話したいと思っているんじゃないだろうか。他人の家族の話を聞くのも楽しいし、いつも発見とか違和感が面白い。また他人に話すことで、違うアングルからも見られるようになると思う。

 

 とはいえ、家族と言っても両親のこと以外あまり話をじっくり聞いたこともない。祖父などの話を聞くこともあるが、それは小学校を転校したこととか、そのあとどこどこの中学に行って、どこどこの高校に行ってその時に学制が施行されてうんちゃら、などと、あくまで客観的なことが大部分を占めており、その時自分がどんな感情だったかなどは、「悔しかった」とか、「不本意だと思った」などのこざっぱりしたテンプレートな言葉で表されるだけだ。祖父は日記を書いているのだが、その日記をいつか読みたいという気持ちでいる。しかしきっと簡素なものであろう。きっと「誰々何時に来る」「娘、孫と食事する」「誰々の葬式。何万包む」「朝から老人ホームに行く。妻の食事見る」とかそんなのだろう。時々ドキドキポイントがあるとしても、「隣の奥さんとお茶」とかそんなもんかな。それさえもないような感じである。ブログみたいな文化には意識がなじまないだろうし、今からブログを書いてと頼んだとしても個人情報をうまく隠すすべを習得するのも困難だから腰が引けると思う。でも提案してみようかな。

 ブログをやっていない人にブログを書いてというと、だいたい「書くことがないよ」と言われるのだが、そんなことそんな基準で言ったら私も書くことなんてないよ。でも書くことなんかないことを書けばいいのだ。なぜならブログに書かないで時間が過ぎて言ったら、ごくごく衝撃的な瞬間を除いては、「普通に過ぎた」としてだけ記憶に残るから、それではさみしいじゃんという、あまりにもこざっぱりした過去がそこにあるだけ。

 

 特に自分は過去のことすぐ唾棄してしまうので同一人物としての過去および現在の自分を感じるためにブログはかなり大事。一億総ブログの時代が来ないかなあ。でもブログというものがそんなに万人に着目されたら嫌だという気持ちもある。もしそうなってマーケティングの材料とかにされたら、国会答弁で引用されたりしまくったら、ちょっと微妙だよねえ。

 

 昔はあまり書きすぎると自分が流出してしまうような感覚があったけれど、今は誰かと自分の間にある皮膜が壊れて混ざり合ってしまってもまだ自分があると感じられる時がある。今書けることは結局明日の自分の核ではありえないんだという考えがある。実はある程度投げやりになっているだけなのかもしれない。ここは昔からの友達には読まれていないから、そこも気楽なのかもしれない。張り合ってた人には惰性で張り合って、弱いところやバカっぽいところは隠してしまうし。

 

 焼き鳥とか食べながら発達障害についてもちょっと話した。正直まだこのことについてうまく話せない。自分は自閉症スペクトラムと読字障害と診断されているのだけど、見た目は普通なので(何度会っても同じ服を着まわし過ぎているとかの不審な点があるにはあるが)外から見てもわからないし、何かの補助金的なものの給付認定をするときに、老人の要介護認定のように、認定する人が判断のために見に来るような仕組みがあったとしても、外から見ただけではわからないだろう。ただ長く誰かと関わっていると色々な問題があるので、また関わって行くために変なお願いをして驚かせたりするのでだんだん露見する。私の場合は、ある種のことを支配的な立場にある知らない人に質問したりするとか、アンケート用紙を作るのはできるけど、それを持って、数十人の人に一人ずつアンケートに回答することをお願いしたりすることがなぜかどうしてもできなくて二週間のインターンで一緒に参加した人にうんざりされたりした。

 

 インターンした時の記事はこちら。なんか倍率高い有名なインターンに受かってしまい、大学五年生でなぜかインターンに参加したけれど、これはとてもいい経験だった。今読み返すとこのインターンしてる時なんでこんなにテンション低くてうんざりしているんだろうと自分でも思う。

 でも多分、毎日周囲にうんざりされかけてたので普通に自分もうんざりしていたんだと思う。期待していることがどう考えてもできないということが明日露見してしまうのではないか・・・ダメ人間かよ・・・そんな気分。でもなぜか人事からの評価は割と良かったので、それも割と怖かった。まあ結論としては総合的に見て大企業が苦手、ということかな。中小企業で頑張っていきたい。面接では大企業より中小企業がいいという理由を色々話したけれど、そうした客観的な理由も、違う方向から見れば自分の問題、自分の特徴なんだと思う。

 

giveus.hateblo.jp

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 これらの記事を書いている時からまだ一年も経っていないと思うと驚きだ。なんか今の方が吹っ切れた感じがある。と思うんですがどうでしょう。あの頃の記事はなんか苦笑しながら書いてる印象かも。

 

 発達障害の本を読んでると、あーやっぱ自分は発達障害だからこういう症状なんだなと思うわけだけど、「あの本にも書いてあった」ということを他人には言わないという話をした。そしたら「本に書いてあるからそう思い込んでる、影響されてる」と言われるのではないかと思うから、という話。でも自分でも本を読んで影響されてるのじゃないかと警戒することがある。日によって常人並ではないけどわりに苦手なことが処理でき気味の時もあるので、諦めないでやっていきたいと思うこともある。けど、ただし何かやはり常人並ではないので違うことで補いたいとか思って失敗したことをひたすら記録している。でもそれでも自分が発達障害だとわかったことは人生においてよかった。人間らしい程度の葛藤で済むようになった。発達障害の本で全部説明するのではないにしろ、どうしてもできないこととかどうしてもやってしまうことが、発達障害だからだという「可能性もある」ということを思うと、自分について考えてる気分が全然違う。

 自分の意思とは関係なく体とか思考が根こそぎ違うところに持っていかれる感覚がたまにあって、そうすると自分で考えた目標とかポリシーを難なく破壊しているという状況が突如爆誕するんだから萎える。今までの固い決意はなんだったのか、自分を変えたいという強い思いはどうなったのか、という感じ。

 

 薬飲めば改善するという人もいるけど、薬飲みたくない。たとえそのせいで大企業を敬遠してしまっており生涯賃金が下がっているとしても飲みたくない。もしこれが脳の一部を切除するとかならわかる。そんなにおおごとならわかる。ちょっと今まで描いていた文章が書けなくなったり、今までのように物事を感じなくなることと天秤にかけて手術するか否か考えてみようという気持ちにもなる。

 

 でも今現在、薬で改善できると言われている症状を薬で解決するようなことは私にとって、社会的人間としてどの程度改善するかはよくわからないにしろ、ものすごく改善するかもしれないにしろ、あまり大したことではない。いや大したことではあるけど、いやめちゃ大したことなんだけど・・・いやなんでかわからないのだけどやはり薬は飲みたくない。というか飲まないでも会社員務まるだろうか。基本的にもう誰も助けてくれないしなあ。自分でなんか考えて補っていけるかもしれない。でも別にできないことが何も要求されないような仕事の内容かもしれないし。

 

 自分は親が精神薬で混乱しているのを見てたので、やはり何年経ってもその記憶を自分とは違うものとして考えられないんだと思う。親ってそういう風に自分から切り離せないものなんじゃないかな。 

 

 白状すると、自分は人生の間で割ときらびやかなもの、世間でグレートと認められているものに近づいたことがあった。けど結局それには全力で打ち込んでも途中で力尽きたり、できないことのせいで落とされたり、ダメ認定されたりすることが怖くて、というかダメ認定されて結局その内部で人並みの仕事を任せてもらえなかったりするのがいやで、そういうものをくだらないとかつまらないとか言って避けてきたところがあると思う。そのことを思うたび、ほんとはちょっと萎えている。けど時間をかければ自分だって世間的にグレートではない場所からだとしても、積み上げて何かを作ることができるんだという意地もある。そして自分をなだめるために、そういうストーリーの方が楽しいんだと自然に思ってしまう人間になったのかもしれない。というか常に恐怖を感じる環境にいるとやはり普通に病みますので、避けた方がやはり良いとは思いますけど。

 

 ところでカレー奢ってくれた五大商社くんに、「たまに病んでるけどあれはなんなの、病気?」と聞かれた時に、「発達障害で普通に疲れることがある」とか言えばよかったんだけどそれはやっぱり言えなかった。というか自然に言わないように洗濯した。俺だって自分で道を選んで何かできるんだという意地を見せたかったのかもね。けどさあ・・・別に私は商社くんの前で病んでる姿とか見せたことなくない?なんで病んでるの知ってるのか。もしかしてこのブログ読んでる?いや病んではないけど。いつも通りだけど。読んでないと信じるけどなんで知ってるの。

 

 ちなみにこの時お会いしたのもくらげ(id:fimakuu)さんでした。東京で二人もブロガーさんに会うことができてよかった。

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 最近は東京の歌が他人事に聞こえてきたよ。あんまり聴かないんですけどね。一応聞けば親近感湧いたりしていたんだけど。歌がこんなに東京を歌ってればそりゃ東京に来て見たくなる人も多いかなと思う。どんなところだ、ってなるじゃないかね。

 

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