いのちばっかりさ

その金字塔/ 絶対自立(物語です)

裏表?いや私はいのちばっかりですね

 今日は重大なことに気づいた気がする。

 私の社会に対する違和感の根本がなんなのか、わかった気がするのだ。たぶん私以外の人が読んでも、そんなこと当たり前じゃないかと思うのであろうが。

 

 それはズバリ「裏表」である。私には「裏表」ということが理解できないのである。また「裏」を知っていることは優れているという発想も理解できていない。たぶん裏を知っているからこそ、裏のある表を振る舞えるのであろうが、私は「裏」について全く意識しないで生きている。それどころか、「裏」は私の知らないもの、それを持っている人は共同作業者として選ぶべきでない人間として認識してしまっている。私は「裏」を知っている人より、広く知っている人を尊ぶ傾向にある。だから読書する人が好きなのかもしれない。だから大学には読書する人が多いと思って大学に行ったのかもしれない。だが大学も裏表の世界だった。これは日本社会の特徴なのだろうか?私はそうは思わない。中国へ行っても、やはり交流する中国人の大学生には裏がある。たまにないものもいる。

 

 人がなぜ裏を持つのかそれはやはりわからない。しかし裏を持つことは実は暗黙の了解で、裏を持つものは相手にも裏があるのだろうと思い込み、それは表の顔だろうから正直に本当の願いを言いなさいという。けれども実はそう問いかけるものは裏のない人材を求めているような気がする。けれども裏などないという人間が来るとまたそれは面食らったり、さらに裏を見せろと問い詰めたり、この人は打ち解けないのだと断定してよそよそしく振舞ったりする。

 

 裏などないという人間というのは私のことである。私は裏表を設けることには居心地の悪いダブダブの服をわざと選んで着るような煩雑としか思っていない。裏表を自分が持っているから疲れるし孤独だなどという言い分には全く賛成できかねる。自分を守るために裏表を設けているのだろうか。ならばなぜそのために疲れるのであろうか。あなたたちは少年少女の時代から大人になる段階で、自分の子供性を、純粋な心を、大人の世界に染められないためにあえて裏表の二重性を設けたのだろうか。何かから自分の心を守りたいのだろうか。その心を世界に晒さないことで、決定的に心が損なわれることを恐れたのだろうか。しかしもしも心がそのままでいられる世界がなくなってしまったことは、その二重性を設ける人々そのものによるのだとしたら?自分自身で窒息する空間を作っているようなものだ。

 

 人の二重性(裏表があるということ)について理解することと、騙されないように備えることは全く別だと思う。人を騙すことと、騙さないことは、利益になるかならないかということに基づいている。その人の利益がどこにあるかということは、その人が置かれている環境、身分、将来設計に基づく。そんなことは互いに正直であればその本人が目の前にいて、その本音の会話を交わせばわかることで、互いに利益になれると感じた時だけ一緒にいればいい。互いに利益になれないのに一緒にいたいと思うならそれはもう結婚したらいいんじゃないだろうか。

 

 もし企業の社長が、自分の心を語る入社希望者や社員に対して、「それは表だろうから裏で考えてることはなんなの、本当は××したいだけなんじゃないの」などというならそんなのほんとつまんねえ会社だな、と思う。そんな奴ばかりいる会社なのかと。そんな目で見て、そんなことを語りかけている限り、あんたの周りに本当にあんたの会社のビジョンを実現したいと思う社員なんかやってこないよ、というかあんたがそこをどけよと思う。なんで正直なことだけ行っている人間が食えない人間みたいな扱いを受けなきゃならないんだよと。

 

 裏表っていうけれど、それが発揮されるところは日常では本当に些細な場所なんだよなと思う。飲み会に行かないで家でテレビ見たいのに飲み会に付き合うとか、正直宅飲みの方がお金がかからないから自分の家に来てくれればいいよと思っていても、外飲みに付き合うとか。正直この上司の下で働けないと思っていても部署異動を申し出ないとか、この友達よりあの友達と遊びたいのに、我慢してこの友達と話すとか。その話し方じゃわからないと思っても、もっとゆっくり話してくださいと言わなかったり。そういうことを繰り返しているうちに、自分がいたい場所とは全く違うところにいつのまにか張り付いているという事態になるんじゃないのかなあ。

 

 そういう現場で承認欲求を満たそうと考え始めると、自分が何を目指しているのかわからなくなるんだろうと思っている。硬直したくない。私はこれをこうしたい、何をしたいと言えないような現場で、承認欲求だけを満たそうとするのはやめた方がいいんじゃないのか。それは親にやれと言われたことをやったりやらなかったりして、失望されるんじゃないかと恐れたり、失望されてもいいやと投げやりになったりしていることと同じで、何も進歩らし進歩をする余地がない。自分の希望を言うことで、自分自身の引き上げ時を自覚して、自分を守るべきだ。

 

 私はこのブログでやはり承認欲求を少し満たしている。私はこのブログで毎日自分のことを書いて行きたいと思うし、このブログでは違和感を隠さずに出して行きたい。いのちばっかりの記録として、何も持っていない時点の自分を自覚しながら、何を持っても、結局はいのちだけが私のためにあるということを毎日思い出したい。そういう記録を誰かが継続して読んでくれているということは、誰かがいいねと思ってくれているということだろうか。このことが私の承認欲求を満たしている。

 

 私のような人間が、この先元気で無傷の人生を送れるとは思えない。でも私は人生を通して、なんらかの形で希望を持っていたいと思っているし、本当は友達も欲しい。だんなを幸せにしたい。

 

 そんな風に思っている私にとって、裏表を設けることは遠回りであると同時にひねくれた遊び、遊びなのに自分を傷つけて幸運を逃しまくっている変な動作、としか映らない。私にも裏表を持つことを求める発言に接する時、ひどく不愉快に感じる。まるで汚い手で目玉を触られるみたいな感じ。何かに感染しそうで怖い。

 

 裏表の高度化した人たちの間で、私はまるで白痴だ。きゃっはーって笑っている。全てのことがアホらしくてたまらない。家に帰って美味しいものでも食べて風呂で心までよく洗ってこいよって感じ。

 

www.youtube.com

 

www.e-aidem.com

 

 

 

 

サーニン (上巻) (岩波文庫)

サーニン (上巻) (岩波文庫)

 
サーニン (下巻) (岩波文庫)

サーニン (下巻) (岩波文庫)

 

 ロシア文学。「結局死ぬのに骨の折れる仕事に取り組むことになんの意味がある」とか言う問いに対して考えるふりをして結局エロとか自殺とかに走るのは本当いい加減にしてよねって感じ。この小説の中に一体何を発見しろと言うのか。

 

 

今日の日記はあえて読み返さない。書いたきり。