いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

大勢でのバーベキュー行かなくていいのではと思ってしまう「友達っていうのは?」

 そういう問題がある。本日友人たちが集まってバーベキューをした。どのくらいの友人かというと、マブダチってほどではなくて、ちょっと数週間苦難を共にしたから、もっかいバーベキューすることでマブダチになろうぜ、みたいなそんな仲。ちなみに私は眠いとかそういうよくわからない理由で行かなかった。

 

 こういった集まりに対して、わたしはいつも中途半端な態度を取って来た。バーベキューの時間には間に合わないけど、行くと思う、と言っといて行かないとか、顔だけ出すかも、と言っといて行かないとか。

 

 バーベキューの時間には間に合わないと前以て言っておくのは、肉代を請求されないようにするためである。顔だけ出すかも、というのは、その集まりに何時間も時間をぶっ込むのは無駄である、時間が惜しい、と思っているから、そう言ってるのである。その段階ではちゃんと顔出すつもりなのだが、しかしそう言っといてから、バーベキューをみんなが焼いてる写真とか、ピースしてる写真とか、抱きついてる写真とか見ると本当に行きたくなくなって行かない。行けないわけではないと思う。靴を履いてとりあえず家を出ればいい。けどそういうバーベキューの集まりにはバーベキューらしい格好があるらしく、私にはそれをわきまえられなくて、場を冷やしてしまうし、もし靴をつっかけて急いで行ったらますますそういうことが顕著になるだろうし、わきまえられなくて御免なさいみたいな態度は扱いづらいから、というかうまくできないから、これが私のスタイルですみたいな堂々とした態度を取ってもまた場にとって腫れ物みたいになってしまうし、と思って「とにかく行こう」みたいにすることも困難だし、そもそもそんなにしてまでそこに行っても誰も嬉しくないではないか、という話だ。

 

 人類はいつどうして、集団で集まってご飯を食べるという習慣を開始したのだろうか。わたしは一度たりとも三人以上の集まりで食事をすることに快さを感じたことがない。アイスクリームは複数人で食べるのも可。

 

 思うのだが、世の中の人は知り合っている程度ではダメなのだろうか。なぜなんのタイミングでマブダチってほどになりたくなるのか、私には皆目見当がつかない。その必要が生じ時間と金銭が許す場合に初めて急接近してマブダチってほどになることは許されないのか。それか純粋に会話だけしてマブダチになることはできないの?純粋に山手線一周のって話をするだけで友達になることはできないの?

 

 そもそも我々に深く知り合う必要なんかあるのか。どんなに深く知り合おうと、相手な利になることをすれば受け入れられ、利にならない事ばっかりすれば最終的に縁は切れる。その基本原則がある限り、我々はお互いを知り合っていると言えるし、みんなで肉を焼くこともいらないと思う。いやまあそんなことは私が後付けした理由で、単に光過敏とか音過敏とかの理由でうまくやれないのかもしれない。でもさー大人数で屋上で肉を焼いて、それで仲良くなるのん?

 

 あんまり考えたくないけど、基本的に、わたしがいなくて超幸せそうな感じになっているところとか、すごくうまく行ってるところに私が行くと、迷惑しかかけない気がする。幸せにすいすい行ってる集団には、どこか変な糸のように規則や習慣が張り巡らされていて、他人をヤイヤイ言ったりして、お酒飲まないとみたいになっていたり、私は参加するなり、「だるくね?」と思ってしまうし、内心かなり不機嫌になってしまう。そしてそれが帰りたいという気持ちにつながり、「かえる?帰らないでカラオケでも行く?」みたいなノリのときに「かえるね!」みたいな態度を一人だけ率先して取ってしまう。実際それで救われて「私もかえる」とかいう人もたいてい何人かいるのだが、場の空気は少し萎える。それもだるいなと思ってしまう。つーか体質だからかもだけど、もうふつうに体疲れたし。「私たちこうやってるからこうやったほうがいいと思うの」てきなアプローチに対しては、「だからなんなの?私はちがうの」みたいなのをふつうに態度で示してしまう。意図的とかひねくれてるとかじゃなくて、疲れたときは寝て良い、そんな都合の良い戦場でしか役に立たないタイプなのだ。それがよくわかる。

 

 基本的に大勢の集まりとなると、いつも出て行ったことを後悔する。

 

 ちなみに私は、そういうわずかな迷惑をかけ続けている自分自身を別に否定する気になっていない。行かないときは行かないって言いなさい。本当にそうだよねって、思うだけです。いやもうなんか、本当にそれ楽しいの?そう思っているわけです。私全然さみしくないし、楽しそうでもないし、電車乗るのお金かかるし。

 

 人ってなんで本当にみんなでご飯食べるんだろうね。その原始的な理由はなんだろう。食べてる時に襲われたら困るからか、食べてる時もし腐ってるのが入ってたらということに備えて偉い人が食べる前に下っ端に食べさせて見てたのか(家長が一番先に食べる規則って、もし毒が入ってたら家長が一番先に死ぬよね)、みんなで食べると気遣いのできない人が露見するからだろうか、それとも同じ釜の飯を食ったものどうし連帯感を強めて、誰かが裏切ったとき村八分にするためであろうか。食べてはいけないものを食べていないか互いに監視し合っていたとか?本当にいつどこで人間は一緒に食事するようになったの?一気に用意した方が便利だったからそういう風になったのかなあ。縄文時代の人とか、集団で食べてたと思う?

 

 考えて見たら、人間っていろんな食べ方があって面白い。一人で食べることもあれば、二人で食べたり、5人で食べたり40人くらい同じ食堂で食べたり。食事付きコンサートなんてのも。立ち食い座り食い・・・観戦しながら食べるとか。すごいなと思います。みんなで食べるのを共食っていうんだなって、今日知りました。

 

 

 

食卓と家族―家族団らんの歴史的変遷

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平成の家族と食 (犀の教室)

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カフェインの真実-賢く利用するために知っておくべきこと

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  アマゾンで「脇毛」の本を検索しても全然面白そうなものがなくて脇毛は無視されていると感じた。

 読んだもの→岡本綺堂 鰻に呪われた男

 脇毛が出てくるもの。でも脇毛はあんま関係ない。→服部之総 せいばい

 脇毛が出てくる→蘭郁二郎 ※[#「氓のへん/(虫+虫)」、第3水準1-91-58]の囁き ――肺病の唄――

 もっと愉快なのがあるべきだと思う。脇毛についてそんなに何も言わないなどということはおかしいのではないか。

 

 あー、三島由紀夫。バーベキュー行きたくなければ別に行かなくていいんですよ、という話じゃん。はぁ