私が未来を考えにくいことにはやはり他の原因もありそう。もしかしてそれでいいのかもな。
私は過去の自分の行動、境遇、感情に意味を割り当てたくない。「〜〜するためにーーーした。」「〜〜な人間だから私はーーー考えた」そうやって何もかも動機と目的があったみたいに、考えることも何もかも嫌だ。
私は過去から逃れるために生きているようなものなので、真実そこに動機があるとすれば、「過去から逃れたい」という内心の動機だけが唯一の、嘘じゃない動機だ。動機とも言えない多動の症状のような感情のほとばしり、常にある衝動性のようなものだ。過去のさまざまなことを振り返ってその過去が今の自分に反射しているなぞと考えたくもない。
就活でてきとうにやらされるのは過去の行動や境遇や感情からじぶんの軸を述べるというものだ。
こんなことを無理やりにやらされなければ、私が過去を見るときの気持ちは、みたことのない宇宙を眺めるときのように、大して気にならない星とかいう岩みたいなやつが遠くに見えるような感じで、平和そのものだった。(だいいち、なんだか宇宙なんて嘘くさいと思わないか。図鑑に載ってる宇宙は闇そのもので、見えないところは暗いはずだなんて、あまりにも盲目的な色ぬりみたいな気がする。太陽のフレアのために明るいところもあるのだろうが、案外コンクリの打ちっぱなしの部屋の中に地球が後で吊り下げられている、そんな可能性だってある。)宇宙の中に浮いている岩のことなど気にする必要もない。邁進するのみだ。
御社の内定を頂き思うことは、物語は偉大だということ。動機と目標に満ち溢れた人生の物語は、人を納得させ信頼感を増し、将来の活躍をまやかしにしろ期待していいような気にさせる。巨大な嘘の物語のある世界に僕たちは生きている。
必要とされたのは私ではなく、過去の物語から反射している光。その反射した光が私の瞳からほとばしり、役員の目に入り、俺たちはキスをしたのだ(嘘)。
過去を改造した物語を追体験することで、私たちは自分がどんな人間であるかを自分に対して言い聞かせるのだろう。私はそんなのごめんだ。クソみたいに繰り返した人格形成のために繰り返した面接のスピーチをちぎり捨てろ。ここにある苦しみと必要に目を向けろ。今ある体の不快、心の不快を人格に関係なく世界の一部としてとらえなおせ。
謙虚さを捨てて禊をしろよ。この3ヶ月私は何も言ってない。
この世界で寂しい。誰と出会うより前に寂しい。
過去を奪われたとしても未来を夢見ることができるはずだ。自伝的記憶がなければ描けない未来など