いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

ダメだとしてだ

 俺はもうまじ疲れたよー

 面接ダメダメだよ

 落ち込んだよ

 自分にこんな真面目に落ち込むことがあるんだと少し感動したよ

 真面目に毎日努力して無理をせずにコツコツやっていればこんなことにはならなかったし、文字も読めなくならなくてよかったし、旦那を幸せにできたし、親も離婚しなかったし、面接でもしくじらないし、中国語試験されてもすぐにすらすら答えられるし、足も痛くならなかったし、毎日お金が余るほどあって好きなものを食べれたのかもしれない。そんなこと有り得ないけど悲しくなった。

 

 結局世間に太刀打ちできないのだろうか。まあ単純に中国語話せないのに中国語の検定を履歴書に書いたのがいけないのかもしれない。

 

つーか世間の中の上層部に太刀打ちできないだけで別に私はダメじゃないですということもわかっている。

 

ダメだとしてだ。

今までダメなとこは少しずつ直してきたけどさすがに疲れた。

 

でもそう思って直すことをやめたら、私は終わってしまうのだろう。

 

でもほんとは終わったその後にも始まりはあって、まだ生きていけることも知っている。人は強いから、これからもある。

 

自分のありのままを話すのが一番楽。全て論理的に生きていたら私の人生はなかった。私の人生を面接風に論理的に直すことなどできない。いつの間にかありのままを話せる人はいなくなったから、いつか小説を書きたい。

 

 

そもそも面接に落ちることも、親が離婚することも別に辛くはないのかもしれない。こういう相反する気持ちはなんだろうか。わたしは旦那に申し訳ないと思う。世の中で上を感じたら危険を感じたりして生きている人にも申し訳ないと思う。わたしは全然偉くなれなかったし、分配する富も持たないでいる。平和な世界に住みながら、のうのうとダメな人間として生きて。とにかく子供の時思ったのとは違う夢の中に生きている。

 

この文章に論理などない

路傍の花になりたいようななりたくないような

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少し偽って話す人生さえも認められなくて少し安心している。それでこそわたしの人生とは思っている。

やはり真面目に生きていないからこういうことになるのかとも思う。できるだけ毎日ふざけている時間をなくして真面目に生きたい。でもふざけたい。