いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

本当に後世に残せるものは何か(死んだ後こっそり知られること)

 本当に後世に残せるものとは何か。自分が生きた証を残す手段について。

 

 私は実のところ、別に自分の生きた証を残したいとは思わない。私は今生きているような感じだし、多分生きているんだろう。私に家族はいらない。仕事もいらない。ただ何らかのミッションを設定してこなそうとしているに近い。うるさい人が死んだ後、ふとあの人は何を考えていたんだろうと気になり出すことがある。そんな時には私は彼の論文をどこかから探し出すことができる。

 

 彼のFacebookには彼はいない。基本的にあれは虚偽の塊だからだ。しかし彼の論文は、それはたとえ古いものであろうとも、学生時代をかけて書いたものならば、彼の思考のコアな部分の残滓が少しはあるものだと思う。私は彼の論文を探し当てようとしているのだが、すこぶる古いものなので手間取っている。

 

 私の所属している学部では、論文を書かない。卒業論文は、その時自分が置かれている環境、自分の興味、それに対する自分の意見を反映するものだ。まるで今の自分と時代を真空パックにするみたいに、生きた証を残す。論文を通して、死後にこっそり知られることを彼はどう思うだろうか。

 

 私は決してその人に肯定的な気持ちは持っていない。むしろ、死んだ後に思って見ても人間としてかなり危ういレベルだと思う。しかしそうした人間としてどうかという振る舞いには関係なく、思考のコアな部分に触れられることを嬉しく思う。

 

 生きた証は子供を作ることでも残せるかもしれない。そう考える人もいるかもしれない。しかし人は死ぬし、子供は面倒だし、原爆が落ちればなくなってしまう。仕事もそうだ。自分がいなくなっても仕事はまわり、回らないような仕事をたとえしていたとしても、その仕事の成果物も原爆が落ちればなくなる。でも論文なら、インターネット上に残るのではないか。

 

 先ほど生きた証を残したいとは思はないなどとは言いつつも、しかも誰も二度と見ることはないのかもしれないのに、私もいつか論文を書きたいと思う。きっと論文を書く人が、その冒頭や末尾に、「誰々に捧ぐ」とか「屋根裏の狭い部屋で」などと書くのは、その年月を生きた証として残したいという気持ちがあるからなのではないか。そういった行動は趣あるものだと思う。

 

 

 

 

 

 

Pocket World in Figures 2017

Pocket World in Figures 2017