いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

私にとって成功する就職とは

  私にとって成功とはなんだろうかと考える。今食品メーカーの説明会に行っているのだが、その製品の業界一位のところ(例えばパンは山崎製パン、即席麺は日清)しか、海外進出に意欲的でないという印象だ。

 

 これは私にとってはとても辛い。なぜなら私は浪人休学留年しており、単位もたくさん残っており、実は(このブログでは隠してないが就活では、実際に仕事する上でそれほど困ることもないと思うので話していない)横書きの文章が読めないという障害もある。読めないことは話していないが、それを話さなくても私の経歴には何か疑問な点があるだろうし、だから何かと業界トップの企業には入れない可能性が高い。

 

 だけど私はずっと自分は海外へ行けるものだと思って生きてきた。それは日本をとても小さな国だと思っているから。それはなぜかといえば両親は世界で働くひとだったからである。

 

 けど私を見ていただければわかるように、両親とはちがう。両親とは教育にかけられたお金の量も、家庭環境も違う。身体的な体力もちがう。

 

 なぜ自分も当然のように世界に出て働けると思えるのか。就活を始めて、多くの人が世界を見ないで、国内だけを考えて働いて、それでも会社を何十年何百年と続けてきて、さらに今も安定して働き続けている様子を目の当たりにした。

 

 説明会に参加して自己紹介しただけで選考に落とされた経験からして、私の行動はやはり普通ではない。人間として普通のことをしているとしても、20代の女性としては普通ではない。

 

 このような人間になってしまって、本当にかなり困った。どうするべきなのか。

 

 それと同時に私と両親は違うということがよくわかってきた。私は何一つ両親と同じようには進めなかったし、いつも人より遅い。一人なら死にたいと思うところだが、私は付き合っている彼氏を幸せにしたいのだ。どうしても私も幸せに暮らさねばならない。

 

 

 私は就職できたところで、つまらないミスを繰り返し、出世なんてできないだろう。これは努力で解消できるものもあるが、どうしてもできない部分がほとんどだ。

 

 もう本当にくたびれちゃうな、という感じ。こんなときどうするべきだろうか。

 

 私は自分が価値ある人間だと信じたいがために、海外で働けるといいたいのだが、私が主張すべき、装うべきなのはその価値なのだろうか。

 

 私は長い間装った価値に基づいて生きてきたために、自分の本当のフィールドを見失っているのかもしれない。

 

 どんな企業に入ったら幸せになれるのだろうか。

 

 結論はおそらくどんな企業に入っても幸せにもなれるし不幸にもなれる。私が思い描いた夢はどうなるのか?それはかき消すこともできれば抱きしめることもできる。

 

 気づいたことがあってそれは、私がもう少しゆっくり寝たいということ。