いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

自分を励ますために

 私は今日友人宅のキッチンのステンレス製のシンクを金だわしで洗ってしまいました。私は知らなかったのですが、ステンレス製のシンクは大変傷つきやすく、金たわしで洗ってはいけないんだそうです。友人は怒っていました。大変申し訳ありませんと言いましたが、謝ったら何だとかそういう問題ではありません。ステンレス製のシンクは私の行いによってさびやすい状態になりました。

 

 正直わたしのやることなすこと、失敗が多すぎるし、失敗が多すぎるくせに社会が怖く、人に対して身構えているため、一人の人間としてかわいらしさがありません。失敗が多くてもかわいいキャラがたっていれば、それで許されることもあるというのに。

 

 私の失敗は大きく二つにわけられる。一つは育ち方とこれまでの自分の性格のために物をしらないことに依る失敗。二には多動とか発達障害とでもいおうか、そういう類いの性質によるもの(まあ発達障害なんですけど)。

 二の失敗は生涯に依る失敗だから、コンスタントに繰り返し続けるだろう。完全になくすことは出来ないし、あんまり減りもしないと思う。一つ目の育ち方とこれまでの性格による失敗や間違いは、学んでいくことで失敗を減らせる。

 

 今回のシンクを金だわしでこすった問題は、私自身が育った環境の中でシンクの掃除をしていたのは基本的に最初から私だったため、他の人がどうやってシンクの掃除をしているか知らず、道具とか何か工夫をするものとも思い当たらなかったからやらかした間違いだ。シンクは早く綺麗になった方がよく、もしこびりついている汚れがあるならそれも一気に取れた方が良い、と思っていたため、金だわしを使った。

 

 私は毎日間違いを繰り返す。発達障害等に原因がある失敗なら言われても何度でも繰り返しやらかすし、経験不足や無知に依ってやらかす失敗も二度は繰り返す。いまのところ三度はくりかえさない。それは、本心から言うけれど、私に緊張感がないからではない。薬を飲んでいないからだ。薬を飲めば多動を抑えられるし、短気記憶をもっとマシにすることもできる。でも私は薬なんか飲みたくない。脳みそに効く薬だ。

 

 間違いを犯した後は、いつも死にたいなあと思う。でも一度も薬を飲みたいとは思えない。私はきっとこの世界で薬を飲まなくても遣って行けると思っている。そして薬を飲まないでくだらない間違いを繰り返している状態でこそ私だと思っている。

 

 経験不足や無知に依る失敗は失敗したときに解決策を与えられることで繰り返さなくなる。発達障害などによる間違いと、経験不足や無知に依る間違いを全部一緒に考えて、失敗ばかりだと思うべきではない。こういう時に自分はだめだとか、くだらない人間だと思うことは良くない。

 

 それに世の中には失敗を良くする人間に必要以上に「失敗している、失敗している」と言い続けて精神崩壊させようとする人が居る。そういう人のやり口に嵌ってはいけない。

 

 私は「薬を飲まないで暮らしていった方がいいんだ!」と声を大にして言えるような天才とか、成功した人ではない。失敗を繰り返して人に迷惑かけるくらいなら、薬をのめよと言われても不思議ではない。手紙を出し忘れるとか、衝動的に正論をぶっぱなしてしまうとか、そういうことで迷惑をかけている。私は成功者でもないし、才能もおそらくないけれど、でも薬を飲みたくないのだ。飲みたくない人に薬を飲むべきだと言うべきではないと思いませんか?そして手紙を出し忘れるとか、衝動的に正論をぶっ放すというような「性格」と捉えてもいいことを「失敗」と評価することは、たぶんいいことではないと思う。

 

 企業の中には、人事評価において「どれだけミスをせずにその仕事を成し遂げたか」でその人を評価し、昇進させたり昇進させなかったりするところもある。昇進するのがいいことか否かは別として、そういう評価基準を作ったら最後、評価は機械的に行われる可能性が大である。そうしたら私はいつまでも評価されることがないじゃないか。評価されるために薬を飲むようなことがあれば、それこそほんとに間違っていると思う。

 

 だから私は就職活動においては、企業が「どんな人事評価基準を採用しているか」「苦手を補い合う環境か」を重視する。わたし、挫けるな。うまいとこ入ってやっていけるか今にかかってるぞ。

 

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