いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

しゅんとなる

 高校の同窓生と渋谷で焼き鳥。みんながみんな頑張っていると思った。みんながみんな、どうしたらいいかわからない中で、重荷を降ろしたり、背負ったりして、今日ここで笑っているんだと思った。

 

 頑張れる愉快さになって帰ったら、母親に怒られた。夜の12時を2分過ぎていたので、「もう真夜中よ。何してんの。」ということだった。電話をかけて来て、さらに帰宅してからも不愉快そうな声で繰り返してくるあたり、技術がある。

 

 こういう場合、わたしが悪いと思うことには慣れているが、今は自由になりたいと思う。一生懸命やって、何もかも一生懸命やって、できるだけ社会的にうまく行きたい。

 

 友達と江ノ島水族館へ行こうとして、真夏の冷たい朝に始発に乗ろうと家を出たことがある。今でもよく思い出す思い出だ。そのときGARNET CROWというバンド?にはまっていて、友達と共通の趣味としてそのCDを聞いていた。そのCDの中によく覚えていないが、「始発に飛び乗る」という歌詞のある歌があった。私たちはあのとき中学生で、道すがらその歌を歌いながら始発に乗るべく二人で駅に向かっていた。恐ろしいことに気づいた。母が後ろからつけて来た。私は恐怖を感じた。死にたくて泣いてしまった。悲しくてたまらなかった。辛くてたまらなかった。怖かった。母の目つきは常軌を逸していた。父と別居した直後で、私と弟を誰にも文句を言われないように育てるという自負があったのかもしれない。娘が始発に乗って出かけるなどということは許容できなかったかもしれない。私は苦しかった。いつも閉じ込められていると感じていた。追いかけられる思い出は、閉鎖感に満ちた生活を象徴している。

 

 この思い出は私にとってトラウマ化してしまっている。母は当然トラウマ化していることを知らず、いまでもどこかへ行くというと「心配だなー。電信柱の陰から見ていてあげようか?」などという。私は鳥肌がマジでザワッと立つ。瞬時にあの時の光景を思い出す。

 

 このことを思い出すとき、どんな干渉や心配の言葉にも怖くて涙が出るようになる。

 

 このことを思い出すとき、一年前の私は母に怒りを覚えなかった。仕方ないし、みんな大変だったんだと思うようにしていた。

 

 いま私は、自分の人生から母を閉めだそうとしている。人生と心は私のもので、その扉はいつでもこじ開けられるように母の手が差し込まれている状態であってはならないのだ。私は扉の間から母の手を引き抜き、鍵を付け替え、新しいパスワードと指紋認証を設定する。扉をしっかりと閉じ、階段を登って自分の人生をあるく。後ろから捕まって「気をつけるのよ、駅まで送ってあげる。」と耳元で囁かれない生活こために。

 

 自分自身が歩きたい道を考える朝のために。本当のことを言えば未来への不安と、期待のために、もう過去のことなんか考えたくないのかもしれない。

 

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