いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

基本的な方針(ギブの加減)

 これまでの二十数年の人生を振り返るに、私は自分の懐から出たもので他人に親切にすることに向かないらしい。他人に親切にするときは、自分の懐をいためないような方法をとろう。無理をして親切にすると、それが無理をしているからこそ、心底自分が嫌になってしまう。特に家族については、絶対に自分の懐をいためて親切にしないようにしよう。

 

 私は世の中が基本的にはギブ&テイクでまわっていると信じるものである。だから安易にはテイクしないのであり、ギブしたからにはテイクを期待する。もちろん世の中にはテイク&テイクで生きている人も居るし、その中にはそれが許される人も居ると思う。人格や、ギブ者とテイク者の関係性にも依るだろう。

 

 まあどんな関係性であれ、私はギブしたからといって、すぐにテイクできるとは思っていないし、そういうことを期待しはしない。だがしかし、自分がギブした相手が、どう見てもギブ&テイクの原則を理解していないと感じれば、これは私がギブする相手を間違えたと思わざるを得ない。まるで川上から流れてきた林檎を拾うのと同じように私の苦痛の成果を受け取っているなら、価値も分かっていないし感謝もしていないということで、私はそんな人に与え続けるほど余裕のある人間というわけではない。

 

 この間酔っぱらって近くの駅でぶっ倒れているとか電話してきた親しい友達を介抱しに出掛けたのだが、その友達が家族の愚痴を言っているときに、ごく自然な感じで私は「そりゃ私もそうだよ。家族に心を尽くしてしてあげたことなんて、大抵後から考えれば吐き気を催すようなことばかりだよ。」と返事した。私が他者の前で、こんな風に激しい言葉を話すことは滅多にない。自分自身の言葉に驚いた。しかしあの言葉は、私の自分観、家族観を的確に表しているようだ。これまでの自分と家族に関する振り返りの総括といっていいようなセリフだった。私の家族は当然ギブ&ギブでは成り立たない程度の関係性でしかないのに、ギブ&テイクの原則には配慮せず、平然と義務のないことを要求してくるのだ。

 

 私の中には、「感謝を知らないなんて本当にひどい」「当たり前だと思っているのか」という怒りと、「家族をこんなふうに敵に見るなんて、だめ人間だな」という後ろめたさがある。確かに私も感謝が足りないのかもしれない。けどもらった恩は私にあんなにも大きなことを要求できるほどのものではない。ずっとこうしていろっていうのだろうか。「感謝を知らないのはお前じゃないのか、家に住ませてもらったのに。」という声が聞こえるようだ。ただ私はいきがしたいんだよ。

 

 だめだなと思う。運良く18切符の季節である。どこへ行くか、正月には家出してしまう。地方にいっている弟も帰ってきて、二人でにこやかに私に義務のないことを要求する。「ねえそれが当然でしょう?絶対そうすべきよ」って。そんなことは不可能だ。もう貸しを作らないと置き手紙をしよう。正直今年の頼み事は本当に不可能だ。断れば怒り狂って私の蔵書は破かれるかもしれない。知ったことではない。蔵書など、私自身の命に比べればなんでもない。私は自由になりたい。誰にも義務のないことを当然の顔で要求されず、手錠もはめられない世界に行きたい。雪の中に行きたい。一人になりたい。強く自分を作っていきたい。この小さな島ではなく、大陸の上で、家も家族も関係ない、強い人間になりたい。陽光を浴びたい。

 

 バカみたいなこといっていないで自立だよと、家族のことを考えたり書いたりする度に思う。とっくにどうでもいいと思っているくせに。

 

差別感情の哲学 (講談社学術文庫)

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