いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

夜中に電話が鳴る類のノイローゼ

 夜中に電話が鳴る類のノイローゼだ。なぜかキリスト教グループの人と人生観について話す機会を得た。全く自分の意思によらず、このようなシチュエーションに置かれたわたしは、自分は神道信者であるということにして(実際そうなのかも)嘘八百やおよろずー。

 

 わたしの大学の英語のクラスにアメリカの大学の卒業生たちが先生に連れられて来た。彼らはキリスト教クラブのメンバーで、大学を卒業した後はキリスト教クラブのために働いていると言っていた。給料も出るが、たくさんではない、暮らして行くためのお金ってだけだと言っていた。その割にはずいぶん裕福そうなんだなと思った。Patagoniaのたかそうなパーカーを着ていたし。何より笑顔がブルジョワ風だ。

 

 彼女は日本の人は本当のクリスマスの意味をしらないから、知ったほうがいいと思うと言っていた。クリスマスは、イエスキリストの生誕祭であるということを理解したらいいのにと思う、と。イエスキリストが、私たちの代わりに罪を負って死んだということについて理解すべきだと言っていた。そしてそのことはより良い人生を生きることに繋がるんだと。

 

 きっとこの人は良い人なんだなと思った。

 

 彼女が1月からバイブルを勉強する会に来ないかと言っていた。わたしは行くかもしれない、チャンスがあれば、とかえした。

 

 もしも1月からわたしがバイブルを勉強したら、6月に彼女が国へ帰るときっとわたしとハグするかもしれない。でもきっとそれだけだなと思った。

 

 彼女によれば、彼女はキリスト教者は死んだら天国へ行ける者もいて、天国へ行ったら、どうなるのかといえば、多分神様とずっと一緒にいられて、ギルティーな感情とかも一切なくて、いつも楽しいんだと思うって。

 

 わたしは天国なんか行きたくないのだ。もし天国がギルティーな感情なんか一切なくて、神様と一緒に居られる場所だとしたら、そんなところに居られるわけない。

 

 わかったことがあって、それはわたしがジーザスのことちゃんとしらないってことだ。わかったことがあって、それはわたしが神様のことを考えるとき、神道の神様には表情があるけど、ジーザスのことを考えるときジーザスには表情がないように思えるってこと。ムハンマドのことを考えるときは布の匂いがするってこと。

 

 それから人は、神様なんかいなくても行きて行けるってこと。たった1人愛する人がいればいいってこと。たった1人愛する人が死んだとき、わたしは天国のことなんか考えたくないし、神様のことなんか考えたくないし、わたしは、死んだ人のことだけを考える。

 

 わたしはギルティーな感情にまみれたままで、他の人が死ねばよかったと願うかもしれない。ある種の神様のことを考えるとき、もはやそこに死んだ人の匂いはなくて、火葬場の匂いだけがする。

 

 

  命しかないから、死ぬのがとても怖い。それでいいと思う。