私はとんでもなく小物だ。人生の多くの時間をどうでもないことに費やした。私はセネカの『生の短さについて』を高校生まで愛読していたが、大学にはいって放棄した。私は長年孔子の『論語』を読んで子どもなりに色々と耐えてきたが、長じてから、その無理矢理な馬鹿げた忍耐のためと思える身体的症状に苛まれた。ミジンコでも電流を避ける時代、何も帰ってこない山に「ヤッホー」と言い続けるのはおばかの所行である。
家人が死に、一年経った。『生の短さについて』を読むとやはりまた読み返してしまう。私は何も成し遂げなかった。自分の人生が無限に続くものと思って、というより、そんなふうに平気で人生の時間を扱えるようになるために、苦しんでわざと『生の短さについて』を投げ捨て、無益なことも「たのしいんだ」と頑張って思い込もうとしてやっていたのだ。もう充分じゃないか。その証拠に私は、そんな行為が本当に無益だとちゃんとわかっていて、ちゃんと真面目な後輩には助言してやった。後輩はその助言を聞いてちゃんと自分の命を有効に使うことを考えたじゃないか。それに満足している。命の短さを思い出す。
私の中国法の先生であるN先生は、かつての自分の教養科目の物理を担当していた師の退官講義を回顧して私に話をしたことがある。
その物理の先生は最後の講義で、「自分は湯川秀樹のような功績は残せなかったかもしれない。ただしかし、ホームにはいっている電車に駆け込んでいって、目の前で扉が閉まっても苛々しない、心が乱されないくらいの心持ちになった」というようなことを話していたらしい。N先生は当時はその意味が分からず、「この人は何を話しているんだろう。」と思っていたらしい。でも今は、その意味がだんだん分かってきたらしい。つまり追い求めてきたものが目の前でだめになっても、心が乱されないような心境になった。ということだろう。そして私の師であるN先生はそれがだんだん分かってきたというのだ。
「じゃあ、一緒に走っていた友達が乗ったのに、自分は乗れなかったらどうでしょう。」「自分の子どもだけ乗って目の前で扉が閉まってしまったら?」・・・それでも心が乱されないんでしょうか?という質問は飲み込んだままだ。それから「でもそれって、結局ごまかしなんじゃないですか?」とかいう質問も。でも私の中に湧き出てきた質問の中で一番重要なのは、「それは打ち込めるものを若いときに見つけて、それに打ち込んだ人だけが言えることではないですか?」「会社員になって、それが言えるでしょうか?」というやつだ。N先生と私はいつも駅まで歩くのに、駅までの道は私からも問い返すには短すぎる。きっと人生もそんな風だろう。私が背中に疑問をしょって運んでいくうちに、N先生はもう先にあの世へ行ってしまう。
私は何をするのだ。人に笑われたら落ち込んだり、親にけなされては気持ち悪くなってミスドで寝込んだり、どうしてそんな時間の無駄遣いをするのだろう。腕を折られて棺桶に入れられるその傷みのとき、私の人生そのものも消えたらいい。あまりにも恥ずかしすぎる。
本屋で『鋼のメンタル』という本が並んでいたので立ち読みしていた。プライドの高い人は人前で話す時緊張する、みたいなことが書いてあった。私は人前で話すのは緊張する方だ。プライドが高いのだろうか。自分のあまりある欠点を列挙することが出来るが、その一部を人のせいにしているのはプライドが高いのかもしれない。ずいぶん前にもう自分がプライドが高いとかそういうことはどうでも良くなっていたんだ。今でも実はどうでもいい。ただそこのところを読んで、プライドが高いってどういうことだっけと思うとともに、べたつくような嫌な気分になっただけで。
『鋼のメンタル』という本の帯には、最後に勝つのは精神力だ、とか書いてあって、それは、家族のトラブルとか、ゼミの運営とか、人前での発表についても、まあそうですよねと、思いました。この本は読んでいないけど、メンタルが鋼なら、誰にも愛されないこともあるかもしれないけど、誰にも傷つけられることはないかもしれない。でも誰にも傷つけられないような人間を私は知らないから、そんな人になるのは恐ろしい。でもなるべきなのかもしれない。もしかして私は誰にも傷つけられない人になることは可能なのかもしれないけど、そうなっても世間で成功する自信はないから、あえて一段踏み外してちょっと傷つく人でしか居られないって振りをするのかな。
そう思いながら私は立ち読みをやめて家へ帰りました。くるみパンを買いにいきたかったけど、くるみパンを買いに歩くようなテンションではなかった。
今日はコレをよむ。
神話で読みとく古代日本 ──古事記・日本書紀・風土記 (ちくま新書)
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