いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

貴陽から西安に向かう約23時間かかる昼夜行列車の中でこれを書いている

 山の上にずいぶん明るい大きな塔が見える。高速道路は複雑に重なり合い、量産されたアパートの窓にはところどころ電気が灯っており、空は何かの光に照らされて、赤灰色に光っている。北京時間の夜10時半である。今は遵義のあたりを通っている。しゃれた街灯はいちいち下車して写真に撮りたいくらいだ。 

 

 何かの工場から煙が空に向けて上がっており、誰にも記録されない私の人生がこの硬い寝台にはあり、全て車窓からの景色は流れ去って行き、私はやっぱり自分の人生を無責任にも浪費しているんだろう。

 

  奄美大島で地元の小学生の作文を読む機会があった。日頃感じる苛立ちについて、自分の成長について書いた文章だったが、作文の各所に「〜〜だろうか。」という表現が多用されている。自分のことに関する文章なのに、あまりにもたくさん、「〜〜だろうか。」の表現がある。例えば、今の私が作文の作者のように語るとすればこんな風だ。

 

 私がずいぶん自分の境遇や行く末について無関心のような気分になっているのは、自分が貴陽にまで来た理由さえ、きちんと説明できないからだろうか。2時間寝たきりで、もう寝る気が起きずこれを書いているのは、あまりにも窓の外の白い光が眩しいからであろうか。もしくは今日食べ損ねた肠旺面の味が気になるように、やりそこねた数々のことに目移りしてしまうようだからであろうか。私はこれからもこんな風に、なんの理由も理解できないままで生きて行くような気もする。あそこにあるのは川だろうか。そこだけ電灯がなく、暗い溝のようだ。川を見るといつもそこに故人があるように思うのは、三途の川を渡れていない、個人の存在を想定しているからであろうか。なぜ私の向かいの席の女性はこんなにも故人の愛人に似ているのだ。髪の巻具合まで同じではないか。ただ彼女の方が足が長く、中国語をしゃべっているためにあの愛人の特徴的な語尾を聞かなくていいというだけだ。故人はまだ川から離れられないのだろうか。私は今なにを思っているのだろうか。これは苦しさというものであろうか。

 

 みたいなね。

 

 

  こうしてこんな環境の中で、自分で選択した列車に乗っていてさえ、私は何かの奴隷なのだ。もういいさと思った。