いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

貴陽にきたが、正直1人でぶらぶらしていてもつまらない

 新しいものはたくさんあるし、物珍しいものもある。しかしなんとなく、珍しいものを見ることにも慣れた。この現象は一体なんなのだろう。珍しいものを見ることにも慣れるなんて。これが歳をとると言うことか。

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  明日は雨らしいが、博物館とか公園とかに行こうと思う。ちなみに1人でぶらぶらしてもつまらないと書いたが、複数人でも大して面白みを感じると言うわけではない。最近は以前に尋ねた場所を再訪して、その場所の人が自分を覚えていたりいなかったりするのが面白い。そして近況報告しているうちに、今と昔の自分は何が変わり、何が変わっていないのか、自分はどんな無理をしてるのだろうとか言うことが、だんだんわかって来る。そう考えると、単に珍しいものを見て楽しく思うような時期は過ぎたのであって、これからは違う楽しみ方ができると受け止めてもいいかもしれない。しかしやはり、珍しいものを見たときに本気で観察する力を失ったのかなとも思う。そのことは悲しい。

 

 しかしよく考えてみればこの世に生まれ落ちてからまるで出来合いのような楽しみを感じていたことなどなかった気がする。わたしは自分でアルバイトとして働くことを選び、それによって稼いだ金銭を他人に渡さないことを自分で選び、自分で貴陽にくることを決定し、こうして柳を見ることをしている。それもまたこの世界に遊ばれている結果だとしても、今日1日わたしが個人として存在したことをわたしはとりあえずしばらく忘れはしないだろう。