いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

子どものときに吊り広告で見ていた小田和正の記事

 子どもの時みていた小田和正の記事のことを、苛立ちまぎれに思い出した。今調べてもその記事について書かれたものは出てくるので、あれは幻じゃなくて、本当にあった記事なんだな。どうせ週刊誌の、本当も嘘も関係ないような記事だったけど、「小田和正は金持ちなのに、親の窮地に援助しないなんて酷い!」みたいな内容だった。それを見て当時の自分は「死に腐れ、何があっても自分の家族だけにはいい目を見させてたまるかと思う人間だって、この世には居てもよいのだ!」と奥歯を噛み締めていたものだ。

 

 驚くなかれ。絶賛家族が嫌いな週間がやってきた。しょうじきなところ、軽い冗談も言えないくらい人に対する憎しみが募るときがある。未熟なんだ。そういうときはやたら走っている。走って忘れようとしているのだが、川沿いを走っているとよみがえってきて、汗と一緒に気化した中にその人影が立ち上がるように見えて、ぐわっとつかんで川に引きずり入れたくなる。スカッシュでもやった方がいいかもしれない。ああいう箱の中で必死で馬鹿なことを繰り返してもんどりうっているような、見るからに変な行動をとった方がいいのかもしれない。

 

 彼氏は私が死んだら悲しむということを伝えてくれる。そのことによって私は死ねなくなる。別に死にたいというわけではないが、死ねると思うと気が楽だったのだけども今は死ねないからひたすら息が詰まる。

 

 死にたいと思うこともなんだか人のためには申し訳ない気がする。がしかし、死んだ人とも行きている人とも遠く離れて、全く異質のものでありながら、いつも家族に苛まれているこの状況はとてもつらい。いざとなったら死んでしまう、と言うことも今ではただ言いにくい。し、思うだけでも思いにくい。本心では失踪して彼氏と二人でどこかへいって、私の家族には一生会わなくてもいいならばそれが一番幸せだし、なんならそういう人だけ集めて暮らしやすい失踪村を作ったっていい。でもそんなこと言ったら彼氏は悲しむし、家族と仲の悪いことは善いことではないよっていうんだろう。

 

 とりあえず引っ越しのために本を減らそう。