いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

欠けているバランス

 友達を作ったり、恋人を作ったりすることで、私は自分に欠けている部分を少しずつ補充できていると思う。たとえば私は元来なにごとも「そんなに頑張ってもそこそこのところまでしか行けやしない。」と考えるたちで、「ならば適当にやろう。」と、常に思っていたし、今でも根っこの部分ではそう考えている。そして身体の調子が悪かったり、お金がなさ過ぎて外に出たくなくなったり、人が怖くなったりすると、もういいじゃないかと講義をさぼったりする。

 

 それでも二十歳を超えてから知り合った友人や恋人は、今まで出会ったことのないまともな人種だと私は思っていて、彼らとつき合っていると、私は今まで狭い箱庭で、鬱屈たりひねくれたりして奇形になった奇妙な人にばかりに出会っていたのではないかと思うくらいだ。

 

 彼らはきちんと継続的に自分に言い訳せずに労働に取り組める人種だ。毎日出勤し、たとえ痛風で骨が折れたと思うくらいの激痛を感じていても、工場の勤務に出掛けていったりする。私なら挫けるなと思う。これを読んでいる人の大部分はもしかしたら「そんなの普通だよ」と思うかもしれないが、私の周りにはそんな人居なかったのだ。

 

 彼らに出会って、私は自分に欠けているバランスを取り戻したと思う。二十歳を超えてから、私は人との出会いでいろいろとまともな人間にしてもらっていると思う。本当に人に感謝している。簡単に言えば自分には生活を整えて、ちゃんと制限内に納めたり、周りと長い関係を続けていく上で信頼を保ったりという継続的な努力をきちんとしたことがなかった。友達と恋人の話の節々に現れるそういう努力の様子に、背筋を伸ばされる気持ちだ。