いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

Kの死 と題されたもの(本に挟まれていたもの)

K氏の死

 

 

 ミモザの花には似合わないのに

 ミモザの季節

 大きな身体をむだにして

 Kが死んだ

 生前のKの記憶力の緻密であることは

 うろこの光も記憶する

 あまりにもうるさい春の場面を記憶することから逃げるよに

 Kは黄色にまみれて咳き込み

 ちょうど雨に打たれたいきおい

 春の中で死んでいく

 

 誰のために多くの記憶をもっていて

 苦々しく笑っていたか

 我々が初めて彼の家に行ったのは

 どうしてちょうど誕生日より二日遅かったのか

 あれは誕生日の招待の手紙をあげたのが

 きっかけだったのに

 

 君なら

 それを事細かにおぼえているだろう

 いまに君の皮膚の感触が永遠に失われる

 すでに焼かれた身体のことも忘れてしまい

 「皮膚の感触」

 と口の中で思い続けている

 「失われる」

 と身構えている

 すでに春が過ぎ夏が終わった

 

 Kの記憶をなんの話題にすることもなく

 苦々しく笑っていたけど

 きっとそのとき何かを言えば

 君は一部の記憶を渡して

 あと一年生きれただろうか

 Kよ

 

 解決のつかないいくつもの写真が残された

 この写真が誕生日の二日後に撮られたのはなぜだ

 もうそれを思い出せる人は居ない

 お互い苦しい笑いの域を出ないで

 お互いを誰と知ることも十分でなかった。

 いまや夏の中でふたたび誕生日が来る

 あしたに投射するKは

 どんどん解釈にまみれていき

 この写真のことも

 最後には救済の解釈にうちのめされ

 梅雨の中で思い出されなくなるだろう