いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

スピーチはあいさつだったんだな

 私はまだ20代前半なので、人の前でスピーチをすることはほとんどない。中学高校時代は、「作文発表会」があったけれど、あれはその場にふさわしい言葉を考えて発言するわけではないので、「スピーチ」とはまた違うだろう。

 

 大人であれば、結婚式や葬式、送別会やねぎらう会など、人が集まる場であればいくらでもスピーチをする機会(危機?)はある。スピーチが上手い人を発見すると思わず尊敬してしまう。スピーチがへたくそな人を見ても軽蔑することはないが、もちろん「長いなあ」とか「つまんないなあ」とか「場が冷めるぜ」などと思ってしまう。そして自分がへたくそなスピーチをしてしまうと、「ああ帰りたい」「恥ずかしい」「鬱である」とめげてしまう。スピーチというのは重大問題である。

 

 だいたいゼミの教授に関して「話が面白くない」とか「変なとこで泣き出す」とか文句を言っているけれど、私だって話が下手なんじゃないか。スピーチが上手くなりたいなあ。もっとも教授の話と突然泣き出すことの意味分からなさは色々事情があるにしろ棚上げできないレベルですけど。

 

 スピーチのことはすっかり忘れているときに、この本を偶然にTSUTAYAの中古本コーナーで見つけて、特に考えることもなく購入して読み始めた。

 

あいさつは一仕事 (朝日文庫)

あいさつは一仕事 (朝日文庫)

 

 

 丸谷才一による、様々な場での「あいさつ」を集めた本だが、この「あいさつ」は私にとっては「スピーチ」というべきものであった。冠婚葬祭の場や、ねぎらう会、開店三十周年のお祝い会で「ちょっとしゃべってくださいよ」と言われてするような、「スピーチ」集。

 でもまあ言われてみれば、「スピーチ」って「あいさつ」だったんだなあ、と思った。だから作文発表会とは違って、場にふさわしいことを話すのだな。スピーチは「発表」でも「発言」でもなく、「あいさつ」だったのだ。なんだ「あいさつ」だったのか。

 

 この本は軽い読み物としてもよい。自分が「あいさつ」をする時に参照するのもよい。この本の最初は「若い二人のために」。結婚式のあいさつである。この中には葬式や七回忌や、大きな賞の授賞式辞なんかもふくまれている。著者は有名人だから、よく知らない人のためにも呼ばれて挨拶する。それでもテキトーに考えているわけではないと伝わってくる。どのあいさつも、「こんなスピーチを自分が開いた会でしてもらったら、自分も、ほかの参列者も、とても嬉しいだろう。会が温かく動き出すだろう。」と感じさせる。よくある固く乾燥した「スピーチ」じゃない。スピーチをお願いして著者が喋ったら、思いがけなく「洒落たあいさつをしてもらった」と驚くかもしれない。

 

 こういう本を読むと、言葉の力を感じる。趣味の良い人とふれあうことの喜びを感じる。高いものを買ってくるんじゃなくて、会場が温まるあいさつ(スピーチ)をしてくれる人を友達にしたい。そんな友達が多ければ、それを聞くためだけに何回も結婚式をしたいくらいだ。別に大した用がなくても、へんてこな会を開いて、しょっちゅう彼らを呼び出したいものだ。そしてしょっちゅう彼らにあいさつさせる。「よいワインを買った会」、「一月の終わり会」とか「豚の脳みそを食す会」などなど。稼いだお金はそういうことに使うのがほんとによいやりかたなのかもしれないなあ。そう思うと、はたらくことも悪くないと思わないこともない。願わくば、一緒にはたらく人がすてきな「あいさつ」のできるような人であったらなあ...。

 

 ある言語学者の先生のお別れ会のことを思い出した。学者の多いあのお別れ会は、どのあいさつもすばらしかった。でもあの会でのスピーチは、あいさつというよりは物語という感じだったな。

 

 

 

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

 

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