いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

ゼミの教授はなぜ泣くの

  ゼミの教授がよくわからないところで泣く。

 私のゼミの教授はある世界では割と権威(というか有名)な人である。けど困ったことに、よくわからないところで泣く。ちょっと心が弱っているんだろうとは思うが、あまりゼミに来てくれない。いや、来てくれるのだが、最後の15分くらいに来て、座っているだけで、その15分も書類を読んでいる。しかしたまに喋るスイッチが入るときがあって、感動する余地のないわけではない話を滔々とする。三十分とか一時間とかする。話の最中、だんだん高まっていき、最後は泣く。そのときは学生たちも何となく泣きそうな雰囲気にならなければいかん。

 

 話の内容はたいていが道徳の教科書に載っているような話。道徳の教科書を読んで泣く人が居ないのと同じで、その話を聞いて泣く人は居ない。正直に「先生、その話は別に泣けないです。なぜ泣いているんですか?たしかにその人は立派ですけど...。」というべきだろうか。教授も本当はそういう一言をちゃんと口にする正直者を捜しているのかもしれない。まさかね...。

 

 教授は何となく、そういう泣ける話をして、学生の前で自分が泣いてしまったということをいい思い出にしているようである。し、正直に言えるなら、ゼミに来ても黙って書類を読んでいるのに、そういう話の一つや二つで一回や二回泣いたからって、いい思い出みたいにされても嫌だといいたい。

 

 教授のあんなこんなは大したことではないし、ゼミのメンバーも全員就活組で学問的好奇心があるとも言えないから、これで別に構わないんだろう。ただ私の親が夜中まで働いたお金を、ただ単にこんな話を聞いて、ぐだぐだと過ごした成果としての大卒学歴を手に入れるために払っていると思うと、「こいつ!」という気持ちにもなる。

 

 大卒学歴は、もしやこんなことに耐えて四年間過ごすだけの忍耐力がありますという証明書なのだろうか。そんな馬鹿な。ほんとに馬鹿なことだ。私の大学では、こういった学生の不満を躱すために、「大学生は大学に居るだけではだめで、外に行って好きなことをしてこそ、大学生時代の意味がある」といったようなことを繰り返し、ことあるごとに、そういった趣旨の文句を、パンフレットや配布物やポスターや講演会の内容に練り込んでいる。

 

 「大学に居るだけではだめ」という言い方は「大学に居ることも大切だ」といいつつ、「大学は別に責任とれない」という意味もふくまれている。かなり面倒な言い方。しかし考えても見てほしい。大抵の学生は、大学に行くだけで、家庭的にも、個人的にも、精一杯だ。大学に行くことで何かを得られないと困る。せめて語学の先生くらいはやる気と手腕のある人を入れて欲しいものだ。

 

 「何も得られないというのですか?馬鹿な。学歴が得られます。」と言い返すのだろうか?暗黙のうちにいつも社会からそう言い返されている。

 

 それこそ「馬鹿な。」であるよ。そんなぐだぐだな場所にただお金を払って、なんとか自分をごまかしながら座っていたというだけで得られる「歴」がいつまで価値ある「歴」であり得るのか。私は結局、学歴だけじゃなく、資格を取るしかないという結論に行き着いた。

 

 「予備校に通うだろう?」と見えない集団が話しかけてくる。断じて通わない。絶対に通わない。もうなにかに投じるお金はない。

 

 教授、あの人ほんとうは、こういうすべての状況に対して、涙を禁じ得ないのだろうか。それならば、どうして教授たちでなんとかして下さらないんです。

 

 

  って、甘えるなって話ですね。ここが嫌なら自分でどこかへ行かなくちゃならない。いつだって、新しいことに挑戦するときはリスクを負わなきゃならないんでしょう。

 

 

 

 

《今日買った本・借りた本》

 

芭蕉俳句集 (岩波文庫)

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