いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

憂鬱な大学生 詩に埋もれる

 すこぶる憂鬱だ。夢が無限にある。将来やることを決められない。どんな仕事も、それが人の道理にかなっていれば、真面目にやることは確かだ。

 

 この歳になるまで、とてもたくさんの選択をしてきた。選択することを楽しんでいたし、人生に関する選択はいつも真面目な気持ちでするから、そこが人生の楽しいところだと思っていた。自分の人生に関する選択はそのときの精一杯でやるもので、ほかの選択にはない必死さと全身全霊の集中がある。進路や信念を選択する時、それは本当に純粋の、全身全霊の選択だ。

 

 しかし最近、自分は発達障害傾向があると言われた。脳のタイプが一般の人のそれと違うということだった。他の人にはできて、私には極端に難しいことがある。今まで自信を持って、自分で選択してきたと言い切れた過去の選択について振り返ることがある。AとBという路があり、「自分でBを選び取った」と思っていたものは、実は「Aを選ぶことはできなかったからBを選んだ」のではなかったかと、なんとなくそんなことを思うようになった。

 

 もしそうであったからと言って、別に悪いわけではない。自分にはできない路を捨てて、自分のできる路を選んだのだから。それだって妥当なことだ。しかしなんだか自分はそのことに脱力してしまう。そんなことに脱力しているべきではない。それは分かっているが、緩やかに挫けている。

 

 自分の意思決定によって貫かれていると思っていた人生が、自分の障害によって貫かれているかもしれないと思うことがある。障害が個性だと言う人もいるが、今は正直そんな気分じゃない。

 

 自分の弱点を知ることができてよかった。理屈ではそうだし、自分の中の前向きな部分はそういっている。理屈じゃないショックがある。落ち込んでいるというのが一番適切かもしれない。

 

 憂鬱なときは思い出したように詩を読みたくなる。

 尹 東柱の『空と風と星と詩』という詩集を読み返した。この人はキリスト教徒だったのだろうか。この人のことを知ったのはたしか立教大学で行われた講演会のチラシを目にしたことがきっかけだったと思う。そのあと古書店でこの岩波版を買った。岩波版には『空と風と星と詩』という詩集以外に納められた詩も入っている。講演会には行っていない。

 

 久しぶりに読み返したが、韓国語版からの訳詩だからか、詩の言葉にはやはりあまり感じるところはない。詩としてあまり好きなものでもない。けれど詩という形で感情を書き残したこの人に、何となくの安心を感じる。

 

 すごく自分に自信がないが、頑張ってやらなくてはだめだと思う。

 たとえばこんな困難であったとしても、この困難から、私は脳の仕組みや脳の発達についてとても興味を持つようになった。自分の興味が法哲学や法律から、すこしずつその重点をずらそうとしている。しかし永遠に動き続けるこの興味関心を一体どうしたらいいだろう?

 

 あと2年以内に、暮らしていくのに必要なお金を稼げるようにならなければならないのに?どうしても仕事という基準で好奇心を制御していくことができない。すべての好奇心を殺すことはできるかもしれないが、そんなことをしたら死んでいるのと同じだと感じる。

 

尹東柱詩集 空と風と星と詩 (岩波文庫)

尹東柱詩集 空と風と星と詩 (岩波文庫)