いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

八百屋へ行って葡萄を買おう

 葡萄の季節ももう終わる。私は葡萄を買ってきて、葡萄を見ながらこの記事を書いています。

 

 果物を持っているといやなことがあっても心が枯れないと思えるの。冬の鞄には果物を入れなくてはいけない。葡萄のことで何か友達と話をするといい音楽が不意に鼻と目の間をかすめたようで、少し息が止まる。巨峰がいいかスチューベンがいいか、指を動かしながら、八百屋の主人と相談している誰かの言葉が今日もよい。(突然に意見を述べた)

 

 本を読んでいても、「そんな理想的な話ばかり、そんな瞬間ばかり、わざわざ拾ってきて並べないでほしいのだ。気持ちが悪い。馬鹿にしている。」と思うことも多い。そんな感情の動かし方には食傷している。図られていて、美しいけどわざとらしい短編に出会うことが多くて、心が疲弊する。

 でも有島武郎の『一房の葡萄』を読んでいた時は、穏やかな気持ちだったと思う。私の小学校の、苔さえもむしられる白い壁には、この短編のようなぶどうの蔓が這うわけもなかったけれど、いつも『一房の葡萄』の、無意味さと結末だけを食べていた。

 子どものために書くことは、社会のために書くこととは違う。いまになってそう思う。有島武郎の『一房の葡萄』は子どものためのものだろう。『一房の葡萄』には、胸が苦しくなるほどの空白がある。子どもがそこに何かを思うための、もしくはそこではないところについて強く感じるための、空白がある。

 

一房の葡萄 他四篇 (岩波文庫)

一房の葡萄 他四篇 (岩波文庫)