いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

覚悟とか身勝手だがしかし

覚悟が足りないでしょ、という気持ちになったりもするけど、覚悟とかを保つのってそもそもバイアスがあって、柔軟性を損なうことだから、そういう者にとらわれない普通の家庭の人と付き合えたってことに意味があるのだと思う。

 

そもそもその種の覚悟なんてものは普通の人は発想さえしないんだよ、と思ったりもする。

 

わたしも家族を捨ててるんだからあんたも捨ててよ!っていうのはそもそも意味がわからないし、その必要もないし、そもそも普通はそういう発想にならない。

 

でもわたしはもう2度と自分で選び取った以外の家族を持つ気はないので、旦那と結婚したからと行って旦那の家族とも家族になる気はないし、遠目に見てるくらいでいいのだし、家に入るなどという発想はもってのほかだと思っている。

 

なので正直わたしが旦那に会いにいくたびに旦那の実家には旦那の家族がいるので、旦那の家族がわたしに課金をして美味しいものとか食べさせてくれて、だんだん、同じ名字になるんだろうなーみたいな機運が強まってきて、いや、同じ名字になるのは便宜上いいけども、そういう意味ではない!みたいに嫌な気持ちになって、墓を守るとかそういう話とかもあって、墓参り行くのは別に楽しいからいいけど、そういう意味ではない!とすごく思って、そういう一連の嫁化の流れを、1つ1つ切り取って場面場面で受け入れるか受け入れないかを考えてしまうような性格なので、あやふやに流されるようなこともむずかしい。

 

つーか嫁ではない。

家の女ではないのだ。

わたしは自分で働いてるし、家が欲しければ自分で建てるし(建てたくはないが)、なんなら子供だって自分で作れるぞ(厳密に言えば生物的に1人では無理だけどなんか無理やり旦那を襲ったりして)、もう一度家族の群れと向き合うような習慣は背負いこみたくない。

 

なんか最近ひとえに結婚をしようということを言っても、旦那とわたしの言う意味はちょっと違うし、わたしの言う結婚をわかってくれと言うか、その中にはわたしの、「家族を作るんなら今までの家族を捨ててよ」って言う身勝手な願いさえ入っていたので、なんとなく鬱な感じになっていた。

 

とにかく、わたしの勝手な家族観でいくと、旦那と旦那の家族は分離して考えるもので、旦那に会いにいくときに別に旦那の家族には会いたくないのであって、特になんかおんなじ女だし、ちょっとは落ち着きたいでしょう的な圧をかけてくるお母さんはすごい苦手ではあるし、なんで旦那に会いにきたのに親に会わなきゃいけないんだよと思う。平安時代みたいに夜這いしに言ったら家族には会わないで帰るみたいなのがいい。

 

そう思ってこっそり会いにいくと言ったのに、旦那は親に何日に来ると報告してしまうので、普通に行きたくないんですけどだるいんですけど、わたしが話してること全て意味があることなんですけどなんでわかってくれないんですかね?みたいになって泣いて旅に出ました。まあ察してとかはダメなわけで、ちゃんと説明出来るように常にちゃんと自分で気持ちを整理しましょう。かつ外で会えるようにちゃんとお金を稼ぎましょう、と言う話。わたしは総合職としてずっと働いて行くつもりだし、子供が望めばいい学校に行ったら留学したりとかもさせてあげたいし、全国転勤なんだからいつか実家の家に住むかもしれないとか言われても、元から戻るつもりかいと馴染めない気持ちです。わたしはちっとも土着していないので、そこらへんは感覚が違うので仕方がない。でも総合職でないとお金なんか足りないよという話で、転勤覚悟だから墓を見るとかまず無理だし家族団欒とかも性格上むりですという泣きそうな話。終わり。

 

 

体調悪くなったとき実家に帰るのは仕方ないけど、まず自分の家庭を作ろうと思ってる場所で病院を探したりとかしないのかな、さっさと2週間以内に東京に引っ越してくれるようにわたしに頼んだらしないのかな。能動的な力が失せるくらい体調悪いのはわかるけど、そうなる前に良さそうな医者を探すとか。実家のあたりの医者にかかりに戻るんなら、ずっとそこに住んでるしかない。なんかそう思った。

 

家に帰れる人はいいよねって羨ましいんじゃないよ。それって酒が嫌いで飲まないで家に帰る人が、酒が好きで飲んでる人に向かって「俺は仕事して酒も飲まずにまじめに家族サービスしてるのに」とか愚痴るのと同じで、好きでやってるのになんで嫌そうにいうのか、勝手なやつだなみたいなはなしだから。そういう羨ましいとかいう話ではなく、わたしは家庭を作ろうとしてるのに、相手は家庭にわたしを入れようとしているのか、それは性格上、ポリシー的に、また経済状況的に無理。というかそれならわたしが作ろうとしてる家庭は何。家庭を作るということは可能なの?まず結婚は家庭を作ることで、今ある家庭を存続させることではないと考えてるので、そこからして考え方は違う。話し合いを要する。

 

あと普通に兄弟がいたりとかしてるのに、自分が長男だから親の財産を相続すると思っている考え方が好きでない。私の同期でもそういう人いるけど、普通に兄弟はとくに特殊に定めない限り相続分等分だし、長男じゃない人にも相続権はある。

 

そもそも結婚した女性親族に相続がないと思うこと自体が家の考えに縛られまくっていて社会の仕組みからずれているので、私はそんなつもりにはなれないのです。

 

自分の親も最近自分の貯金のなさにビビって、祖父の相続をあてにしてるけど、私は子供が生まれてもちゃんと稼ぐし、いくら私の稼ぎがしょぼいからって親の家を兄弟姉妹にも相続権があるものをあてにしたり、いつかそこに住むとか考えるほど自分を卑下しなくたっていいよ、それはあんまりだよと思った。

 

私にだってそれくらいのものをあてにしないくらいの覚悟で人を愛してるわよって思った。行きたい京都での就活やめて苦手な東京で就活して有給潰してるのも、貯金してるのも、全部覚悟だけど、そんなも本当は自分勝手なことだよねと思うけど他にしようがない。でも他にしようがないというのは嘘だと思うので、多分何かしようがある。

子供ショートカット

親子

 「お父さんとお母さんは私のことが好き?」

 「好き」「好き」

 「将来に何になってほしい?」

 「なんでも好きなものに」「成り行きに任せればいい」

 「なんでわたしをつくったの」

 「愛し合ったから」「小さなものがひつようだった」

 「小さなものが必要なら猫を飼えばいいのに」

 「おとうさんは猫アレルギーだからだめなの」「そう」

 

人事と若手

 「どうして会社を辞めるなんて言うの、まだ決断するには早いでしょう」

 「早ければ早いほどいいのです」

 「それはなぜ」

 「性格がねじくれてしまうとなおりにくいので」

 「どうして会社が嫌になったの」

 「働いている人が子供みたいだから」

 「それはどういうこと」

 「みんないじめられた子供みたいにねじけているんです。成長もなく、人に恥をかかせることにしか興味がない。」

 「私から何か注意しようか」

 「注意の問題ではないのです。精魂の問題なのです。」

 「ちょっと待ってくれない?」

 「不可です。私は損切りできる人間です。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

関係がないのですが、

この短編集に乗っている話、どれも読後感が悪い(世間的にはめでられるものかもしれないのだが、私としてはすごく読後感が悪い)ので嫌いだと思いました。

 全体に被害者意識がみなぎっている気がした。

掌の小説 (新潮文庫)

掌の小説 (新潮文庫)

 

単純に考えれば、世界は自分より大きいので、そこで生じた不幸なことを被害だと考えるのは容易い。それを被害だと捉えず能動的に立ち向かう心で感じ取るような小説が好き。

 

こういう問題が生じた

悲しいでしょう、辛いでしょう、ひどいでしょう

だから読者にもそれをべたっと塗りつけます、ハイ終わり、それは嫌い。

休みの1日目、寝すぎる

休みの1日目こそ自分を操縦せねば。

社会人になって休みが少なくなったからかもしれないが、やたら楽しいことをやらなければという気持ちがあり、楽しく1日を使おうという周囲の風潮に流されていたが、それは不自然であるということがもうわかっている。自分は楽しいことを楽しいなんて楽しめる人間ではない。

 

例えば18きっぷで移動する時に、こことここで途中下車すれば楽しいことはそれなりにあるはずだ、みたいに考えるのは気持ちが悪い。途中下車なんてどこでも楽しいのだ。途中下車なのだから!学生時代に途中下車した場所ばかり巡るのも気持ちが悪い。これから新たな途中下車を楽しめるのは生きている人間の特権なのだから!そして私は特権という言葉が嫌いだ。なんだ特権というのは。もうちょっと嬉しそうな言い方がないのか。

東京

東京行って、田舎で暮らしたことで自分がちょっと変わったと思った。

街を歩く時、

都会では「私は街を歩いている」

田舎では「私の歩くところに街がある」

 

圧倒的な人の多さと、上を見ても空がちゃんと見えない過密な環境ゆえ、街に弄ばれ歩き回されているような気がしていた学生時代だったが、今改めて東京を歩くと、

「私は街を歩いている」と「私の歩くところに街がある」の中間みたいな感覚になっている。

 

目的は果たしつつ、目的に関係のないところはあえてみなくて良いのだという自由は理解しながらも、やっぱりちょっと街に弄ばれ歩き回ってお金を使ってしまうようなところもある。

究極の心ここにあらず状態

もともと高みを目指す性格でありながら、高みの人とはうまくやれない。毎回登ってはドロップアウトの連続あぁぁ。

 

いわば未来というものを、誰かの誕生日に買って帰るケーキのように考えていて、あんなこんな装飾があって、あんなこんなメッセージを書いて、あんなこんな中身で、あんなこんな層になっていて!などと理想を想像しているが、いざ買おうとすると絶対にそんなものは存在せず、変えないし、作る力もない。結果ふつうのショートケーキを買う。

 

相手は喜んでいるが私は不満だ。去ろう。そういうなにか。今のことを考えるんだよ、と自分をなんか動かせるときも出来てきた最近。成長だ。

 

ひとえにちゃんとして真人間になり、結婚したいという思いが私をなんとか進歩させているのである。たぶん。

 

だが真人間とかよくわからなあーい

ジンジャーエール

お高いジンジャーエール買って飲んだ。家族大好きな人が書いてるブログを読んでて、家族で食べたら美味しいのに1人で食べると何もかも味気ないとか書いてたけど、私にとっても旦那がいないと何を飲んでも値段相応の感動がない。

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1人でも食べたら美味しいと感じるのは生ハムとサラミ。この2つは孤独であればあるほど美味しい気がする。なんか好き勝手やってる感じがいい。