いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

かちぐみ?

 就職活動を通して思ったこと。

 大企業に入ることが必ずしも成功ではない。大企業に入ってその後思い通りにした人は、自分がうまく行ったのは大企業に入ったからだと思いがち。でもほんとはその人のいろいろが良くてうまく行ったのかもしれない。なんか会社のおかげと全部いうのはもったいないような気がする。

 

 世界を動かしている会社の社員が必ずしも世界を動かしているとは限らないこと。

 

 会社が良くてもここでは働きたくないなと思ってしまうビルとかがある。毎日通うなら自分に似合うビルの会社を選ぶ。

 

 私は大企業に入る必要はない。

 

 単位を落とすかもしれないと思っていても全然本気で就活しちゃうことが可能ってこと。

 

 人事の印象で入社決めるって馬鹿だと思ってたけど、普通に人事しか会えないからやばみ。

 

 同じ会社の関東支社と関西支社の人が求めてる人材が違うのに採用は一括だったりして引き裂かれる時がある。

 

 

 親から逃れたくて地方にか行きたいと思っていること。

 

 でもさすがに月給18手取り13とかだときついこと。

 

 動き回っている時が一番幸福だから、動き回る営業とかの仕事をしたいこと。MRとか実はいいじゃんね。

 

 数年ぶりに再会した人が中卒から院生になっていてびびって喜んだ。昔から頑張って勉強してたもんな。飲んでいたら終電逃し、バスタ新宿でよを明かした。まじかい。

水筒の具合がいいので大きいのも買った

 

  これの赤いやつ

 紅茶のティーバッグを買うときに中国共産党員としては日東紅茶の一番安い100パックくらい入っているやつを買おうかと思ったが、よく考えたら中国共産党員ではないし、美味しくない嗜好品はもはや嗜好品ではないのでやめてリプトンの黄色いやつにした。大きい水筒で夏日にも暑い紅茶が飲めるので嬉しい。

 

 これで喫茶店でお金を使わなくて済むとは思うが、今日のような灼熱の日光下ではどうすることもできない。まただらだらしていたら書き損なった履歴書や、なんども書き損なってもはや提出できない履歴書などを書き直す際にはさすがに何処かへ座って描かねばならない。ちなみに手書きの履歴書を書いて、一週間くらい後に見直すと「なんだこれ、誰が書いたんだ」というような汚い字で書いてある。精一杯気を使って書いたのにこの事態である。私の字は昔割とマシだったのだが、なんらかの影響で精神がやられてからというもの、回復後も一向に治らない。まあただしそれは小学校高学年の頃のことなので、まあ私は実は元から字なんかまともに書けなかったのかもしれない。この生でノートに書いた日記は二度と読み返さないし、ノートに書いた講義ノートそもそも講義内容を聞き取れないのでノートなんか書き取れないが)も二度と読み返せないので、文字の上に過去の自分を見ることがなく精神衛生上はとても良い。

 

 花も光の総合商社で働いている友達に会ったら三島由紀夫を読んでいたし、なんか彼女ができて幸せそうだったのでらしくないなと思いつつもなんだこのパッケージ化された右翼はと思いつつ、当たり前な友人の幸せに素晴らしい思いがした。

 

 三島由紀夫といえば春の雪と沈める滝やろーと思っているわたし。大阪は暑かった。

 

 

 

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

 

 

沈める滝 (新潮文庫)

沈める滝 (新潮文庫)

 

 

 まあなんか中国好きみたいな話はメーカーでは微妙なウケに終わる場合が多いですね。「日本帰ってくると、日本いいなーってやっぱり思いますでしょ?」みたいに聞かれます。「いや正直日本になんか帰りたくなくなります」とはいいませんが、私たち学生がこんな若いうちからそんなおっさんみたいに日本大好きだったら、ほんとにおっさんになったときどうすりゃいいんですか。この世の中に完全な仕組みや国なんかないし、完璧でないものに対して好きも嫌いもない。私はただ改善したいと改善もできないのに思い続けているだけで。

バスターミナル賢者

 バスターミナルで賢者モードに陥ると、なんの慰めもない。一体こんな夜中に何をしてるんだ、関西まで出かけて、そこまでして就活するのか、好きな人にも会わないで、何をやってるんだ僕は、バスのために買ったおやつは忘れて部屋で腐ってしまうだろうし、悲劇じゃないか............

どこに行ってもお母さんに見られている気がする

 どこに行ってもお母さんに見られている気がする。どこで働いている自分を想像しても、お母さんに見られながら受け身で働いてしまう気がする。どこに行ってもお母さんが怖くて、背中にお母さんの手がのっている気がする。全ての日本語はお母さんの声で、すべての英語はお母さんの発音で、すべてのフランス語はお母さんの温もりで、この世に響く。

私は今まで給与項目を見ずに就活して来た

新卒の給料はだいたい同じだと思っていたからだ。しかし、それは違った。

 

内々定御社(二社)の月収の差である

 一社目

    修士了/月給 218,900~245,170円
 大学卒/月給 210,500~235,760円

 

    二社目

     院卒   月給19万3000円

     大学卒 月給18万5000円

 

 まあ御察しの通りやりたい仕事は二社目である。世の中はかくもうまく行かないものである。ちなみに給料高い方は超赤字企業である。

 

  社会人の皆さん、こう言った場合にどう考えるべきかご教授ください。どうかどうかどうか。

 

 

 明日もまた選考である。

 ■持ち物
 履歴書(顔写真貼付)、筆記用具、予約票
 ※履歴書はフォーマットの指定はございませんが、お写真の貼付のあるものをご準備ください。

 

ちなみに最近見た謎の案内

■持ち物 
 携帯電話(マナーモード)など
※セミナー会場でQRコードを利用して、出席の受付を致します。携帯電話(マナーモード)などを持参してください。
※「QRコードを読み取れる携帯端末をお持ちでない方」、「携帯端末からメンバーズサイトへアクセスできない方は、URLをお渡し致しますので、後から入力を行って頂きます。
 
(マナーモード)とわざわざ書く。。。
 

この理由ある人生

 私が未来を考えにくいことにはやはり他の原因もありそう。もしかしてそれでいいのかもな。

 

 私は過去の自分の行動、境遇、感情に意味を割り当てたくない。「〜〜するためにーーーした。」「〜〜な人間だから私はーーー考えた」そうやって何もかも動機と目的があったみたいに、考えることも何もかも嫌だ。

 

 私は過去から逃れるために生きているようなものなので、真実そこに動機があるとすれば、「過去から逃れたい」という内心の動機だけが唯一の、嘘じゃない動機だ。動機とも言えない多動の症状のような感情のほとばしり、常にある衝動性のようなものだ。過去のさまざまなことを振り返ってその過去が今の自分に反射しているなぞと考えたくもない。

 

 就活でてきとうにやらされるのは過去の行動や境遇や感情からじぶんの軸を述べるというものだ。

 

 こんなことを無理やりにやらされなければ、私が過去を見るときの気持ちは、みたことのない宇宙を眺めるときのように、大して気にならない星とかいう岩みたいなやつが遠くに見えるような感じで、平和そのものだった。(だいいち、なんだか宇宙なんて嘘くさいと思わないか。図鑑に載ってる宇宙は闇そのもので、見えないところは暗いはずだなんて、あまりにも盲目的な色ぬりみたいな気がする。太陽のフレアのために明るいところもあるのだろうが、案外コンクリの打ちっぱなしの部屋の中に地球が後で吊り下げられている、そんな可能性だってある。)宇宙の中に浮いている岩のことなど気にする必要もない。邁進するのみだ。

 

 御社の内定を頂き思うことは、物語は偉大だということ。動機と目標に満ち溢れた人生の物語は、人を納得させ信頼感を増し、将来の活躍をまやかしにしろ期待していいような気にさせる。巨大な嘘の物語のある世界に僕たちは生きている。

 

 必要とされたのは私ではなく、過去の物語から反射している光。その反射した光が私の瞳からほとばしり、役員の目に入り、俺たちはキスをしたのだ(嘘)。

 

 過去を改造した物語を追体験することで、私たちは自分がどんな人間であるかを自分に対して言い聞かせるのだろう。私はそんなのごめんだ。クソみたいに繰り返した人格形成のために繰り返した面接のスピーチをちぎり捨てろ。ここにある苦しみと必要に目を向けろ。今ある体の不快、心の不快を人格に関係なく世界の一部としてとらえなおせ。

 

 謙虚さを捨てて禊をしろよ。この3ヶ月私は何も言ってない。

 

 この世界で寂しい。誰と出会うより前に寂しい。

 

 過去を奪われたとしても未来を夢見ることができるはずだ。自伝的記憶がなければ描けない未来など

「次」について考えることと「未来は今より良くなる」と考えること

 「次」について考えることはまだしも、「次の次」まで考えることは必ずしも重要ではないのではないかと思う。それよりも「未来は今より良くなる」と思う気持ちがとても大切だと思う。それは自分と世界の流儀と力を信じてるということだからか。

 

 いままで「次の次」を考えていた時は大体「次」がもううまく行きそうにないときだった。「次の次」を考えてるのではなくて、見えないのをいいことに先のことにすがっていたのではないか。だんなは「次の次」についてはあまり考えない。私は「次の次」にすがっている時には「次の次」を考えられる人の方が高尚であると思い込もうとする。そんなときだんなに「あなたは次の次について考えないね」と言う。当然少し偉そうに。

 

 だんなは笑っている。できた人だと思う。この人を幸せにしなければならないと思う。

将来について考えるという発想

 旦那に会うまで将来について考えるという発想はなかった。考えていたのは将来と言う名の思考が働かない場所で、理想の生き方、かけたところのない生き方をする理想の人物の話。

 

 両親には悪いことをした。

 旅行先のパンフレットを見せられても、私は夏季休暇にそこへ向かうことを楽しみになどしなかった。未来のことを考えると言う発想がなかったといえる。ただいまの自分に対する深い絶望を抱いていた。

 

 深い絶望という下地の上で面接で笑っている私は、いま未来について自分のことを考えている。将来について考える人間は単に善人ではいられないかもしれない。